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脳死判定のニュースを聞いていて、もうこの女性はほとんど死んだような扱いなのだなと感じた。心臓や肝臓を取り出すことに法的問題があるかないかだけが問われている存在。物質ではないが、十全な人間でもない。

もともと、生と死の境目はそんなに截然としてるわけではないと見るべきだろうから、99%死んでるような扱いというのもなかなか現実的なのかもしれないが。
それにしても、44歳の妻が突然危篤状態に陥った夫は、それだけでもパニックだろうに、時間的余裕の全くないまま脳死の際の臓器摘出に同意するか判断を求められ、その後は全国向けの報道を常に意識せざるを得ないわけだろう。

そういう極めて異常な状況に置かれている家族の思いなどは、報道は全く関知しないらしい。

と思っていたら、たまたま聞いた今朝のラジオでは、NHKの解説員は家族の心情にも言及していた。回復してほしいというのが家族のなによりの願いであろう、と。
これを聞いて少しほっとした。

生物としての死は実は少しずつ進行するものであるとしても、なんらかの基準によりどの時点かで「死んだ」と判断されるまでは、家族にとっては患者は100%生きているのだ。
99%だめだと分かっていても、1%の可能性がある限りは回復を祈る、それが自然だろう。

本来連続的な変化を、ある点で生と死の2つに切る。全ての死亡判定がそうなのだが、脳死判定は、そのことを強く意識させる行為なのだということを、今さらながら感じた。

付け加えるなら、葬儀も、生と死を截然とわけるための儀式なのだろう。はっきりと、あちらの世界に送るわけだ。
そういう意味では、火葬の方が土葬より、強く連続性を切断している。
人類は、連続性の切断をより明瞭にする方向に進んできたように思われる。死んだ者はよみがえらないということを共通の認識として確立する方向だ。

幼児や未開の民は、不可逆を理解しない。不可逆は学習され、文明の中に蓄積、伝承される。
生から死への変化は連続的であり、全て不可逆なわけではない。死にかけた人が一滴の水で生き返ることもある。しかし、ある境を越えるともはや元に戻らない。
こうなるともはや元に戻らないという、その境界をどこに置くかを決めるのは文化だ。脳死を人の死とするのも新しい文化だ。

心の奥には、幼児と同様、もしかすると元に戻るのではという思いがある。それを、文化に従い、意識的に断ち切る。共通の文化があるから、やっとそのつらさに耐えられる。
家族の死を認めるということは、極めて内面的な行為だ。本来、報道にさらされるべき性質のものではない。

社会的な意義の大きいできごとだから、報道機関が取り上げるのは当然なのだが、家族の内面に思いが到っていないとしたら、非道なことだ。

 

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