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日経ビジネス1998.9.28号編集長インタビューにおける南部靖之氏(パソナグループ代表)の発言には頷くところが多かった。

・どんな人でも、何らかの才能はある。それを分析して、売れる才能を切り売りすればいい。
・これまでの労働市場は人材の市場だったが、これからは個別の才能を売り買いする「才能マーケット」ができる。
・才能を切り売りするといっても、必ずしも派遣社員という形をとる必要はない。自分で事業を起こしてもいい。
・日本人の能力の90%は会社の中では死んでいる。

 

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河口龍夫「封印された時間」展を見る。(水戸芸術館現代美術センター)

河口氏の作品はこれまでも何度か見ているが、これほどまとまった、規模の大きい個展は初めて。
植物の種子を鉛の板に閉じ込める、従来から続く作品だけでなく、化石のフロッタージュ、蝋で固めた新聞、蝋で固めた蓮と、傾向が広がり、楽しめた。

封じ込めることによって、生命、そして生命と不可分である時間を浮かび上がらせるというこれまでの方法に加えて、何億年も前の封印を解く方法(フロッタージュ)や、現代社会を一旦化石(蝋固め新聞)にすることにより時を隔てて見る方法を示した、と理解した。

フロッタージュによって直接浮かび上がってくるのは形にすぎないのだが、その形こそが生命を感じさせる。蓮もまた、生命の形であった。だからこそ、アーティストが生を表現できるわけだが。

新聞は、朝日の1面。一部の写真とわずかな記事だけが微かに見て取れる。1994年から95年のもの。阪神大震災の写真もある。
記憶がはっきり残っている現在はともかく、数百年数千年の後に現代の新聞を読む者は、一体どうやって我々の時代、われわれの思いを読み解くのだろうか、そんなことを考えた。

スペースと作品との関係。現代美術センターのあれだけのスペースを全て生かし切るというのはもちろん大変な力量だ。それだけで、河口氏が国際的にも十分通用するアーティストだと言っていいくらいだろう。

スペースを生かすことは、スペースを埋めることとどう違うのか。
例えばフロッタージュ(全て97年作)の場合。確かに廊下の長さを生かしている。何億年という時間を現わすのに適した空間だ。あの作品群はあの展示空間を求めていた、と言ってもいい。
一方で、展示数は、廊下の長さによって規定されてしまうのも事実だろう。あの廊下が10倍あったなら、10倍展示するのだろうか。それだけの作品がなかったらどうするのだろうか。
「蓮の時・昇天」の場合。展示室の高さのある空間と上からの光に触発されて生まれた傑作と思うが、氏の既存の作品にはあのスペースに合うものはなかった、だから今回新しく制作された、とも言えるのだろう。

*ミュージアムショップで、注文したカタログの送付先を書きながら用紙の前を見ると、東京はもちろん京都の住所まであった。割合とすれば水戸は少数かもしれない。これは芸術館として誇るべきことだろう。