ゲーテ「イタリア紀行」

#1

われもまたアルカディアに! #2


Goethe on his Italian journey, 1786-1788; oil painting by J.H.W. Tischbein
#2.1


ゲーテの旅程(1)

1786年
9.3 朝3時カールスバート発 #3 ツウォータ エーガー ティルシェンロイト
9.4 午前10時レーゲンスブルク着
9.5 午後10時レーゲンスブルク発
9.6 朝6時ミュンヒェン着
9.7 朝5時ミュンヒェン発 ウォルフラーツハウゼン ベネディクトボイエルン
   ワルヒェンゼー 夜ミッテンワルト着
9.8 朝6時ミッテンワルト発 シャルニッツ ゼーフェルト インスブルック ブレンナー着
9.9 夜7時ブレンナー発 9時シュテルチング 12時ミッテルワルト
9.10 ブリックセン 明け方カルマン 7時トイッチェン ボーツェン トレント着
9.11 夕方5時トレント発 ロヴェレド着
9.12 朝5時ロヴェレド発 トルボーレ着
9.13 朝3時トルボーレ発 マルチェジーナ
9.14 真夜中マルチェジーナ発 朝10時バルドリノ 1時ヴェロナ着
9.19 ヴェロナ発 ヴィチェンツァ#4
9.26 ヴィチェンツァ発 パドヴァ着
9.28 パドヴァ発 夕刻ヴェネチア
10.14 夜2時ヴェネチア発
10.16 朝7時フェララ着
10.17 チェント
10.18 朝チェント発 ボローニャ着
10.21 ボローニャ発 ロヤノ着
10.22 ジレド
10.23 フィレンツェ #5
10.25 ペルジャ
10.26 朝ペルジャ発 アッシジ フォリニョ
10.27 テルニ
10.28 朝テルニ発 チッタ・カステラナ
10.29 晩ローマ着
1787年
2.22 ローマ発


テキストから

しかし現在の私としては、本でも絵でも与えてくれない感覚的印象が大事なのだ。肝要なことは、自分が元通り世の中に関心を抱き、自分の観察力を試験し、自分の学問や知識がどの程度のものであるか、自分の眼が明澄純粋であるか、どれくらいのことを自分は束の間につかみうるか、自分の心情に刻印された皺を元通り消し去りうるか否かを吟味することである。(p.40)

それゆえ私はパラディオを評して言う、彼は真に内面的に偉大にしてかつ内部から偉大性を発揮した人物であったと。(p.74)

昨日は歌劇があった。夜中すぎまでやっているので、私は寝たくなった。「三人のサルタンの姫君」と「宮殿よりの誘拐」とは、幾つかの襤褸をもって、不器用につぎ合わせて一篇を成したようなものである。音楽は聞いていて気持ちはよかったが、たぶん素人の作であろう。心に触れるほどの新しい着想もない。(p.76) #6

私の父はイタリアから携えてきた美しいゴンドラの模型を持っていた。(p.89) #7

私の室の窓は、高い家並の間にある狭い運河に面しており、窓のすぐ下には虹形の橋が懸っていて、その向うには一本の狭い賑やかな小路がある。(p.89)

小路の幅は通例両手をのばすと届くか届かないぐらいである。最も狭い所に行くと、腕を両側に上げると肘がつかえてしまう。(p.95) #8

イル・レデントーレ寺院はパラディオの手になった美しく偉大な建築であり、その正面は聖ジョルジョより遥かに賞讃すべきものである。(p.100)

チロールの峠は、いわば飛び越してきた。ヴェロナ、ヴィチェンツァ、パドヴァ、ヴェネチアなどはよく見たが、フェララ、チェント、ボローニャは駈足で通りすぎ、フィレンツェはほとんど見物しなかった。つまりローマへ行こうという欲求が余りに強く、しかも瞬間毎に高まって足を留める気にならず、フィレンツェには僅々3時間いたばかりだ。(p.169)

ティチアノの絵の前ではさらに驚嘆した。その絵にかかっては、私が今までに見たすべてのものが気圧されてしまう。(p.172)

たとえて見ると、手先の器用さと手工の趣味とを主とする半芸術とでもいうべきものがそれで、それがまた極端に進歩していて、外国人の興味を引きつけている。(p.192)

この際、教授の労をとり、指導という口実のもとに、もっとも肝腎なところへ具合よく手をいれてやる器用な美術家がいて、最後に鑞で浮き出して輝いている絵が金の枠にはめられて現われると、美しい女学生などは、今まで気づかなかった自分の才能に呆気にとられているという調子である。(p.193)

私はティッシュバインがしばしば私を仔細に観察しているのに気づいていたが、彼が私の肖像画を試みようとしていることは、やっと今になってわかった。(p.204) #9

しかし理解したところで、すぐ実行できるというわけではない。物事を速やかに理解することは、たしかに精神の特質ではあるが、しかし物事を立派に仕上げるためには、一生を通じての練習が必要である。
けれども、いくらその腕がにぶくても、素人はそれに辟易してはならない。私が紙に引く少数の線は、しばしば投げやりに過ぎて正確なものでないにしても、感覚的事物の表象を作る上によい助けとなる。何となれば、私たちが事物をより正確にまた明細に観察すればするほど、私たちはより速やかに普遍的なものへと高まることができるからである。(p.231)

私は叫んだ。「あの別荘の馬鹿げた普請に金をかける代りに、その莫大な金をこの方面に使うべきだった。そうすればどこの君主だって、それ以上の事はやれないだろう。」
これに答えて主人が言う、「人間というものは皆そんなものですよ。馬鹿げたことには好んで自分の金を出しますが、善いことには他人に金を出させるんです。」(中-p.96)


Goethe's recommendation

今晩ヴェロナに行けば行けたのであるが、近くにまだ一つ天然の景勝が残っていて、これがつまり風光絶佳のガルダ湖である。これを見落とすことが厭さにまわり道をしたのだが、それだけの甲斐は十二分にあった。 (p.45) *see WWW "Le citt del Garda"

西側の山も嶮しくなくなり、土地もなだらかに湖の方へ下っているあたりに、かれこれ一時間半の距離にまたがって一列にガルニヤノ、ボグリアッコ、チェチナ、トスコラノ、マデルノ、ガルドネ、サローが横たわっている。その上またどれもこれも大ていは細長い町である。こんなに人口の豊かなこの地方の優雅な眺めといったら、とうてい表すべき言葉もない。



Note

#1 Johann Wolfgang von Goethe:Italienishe Reise 相良守峯訳(岩波文庫,1942,ISBN4-00-324059-6 C0198)によった。

#2 Auch ich in Arkadien! ラテン語のEt in Arcadia egoより。(相良註)

#2.1 this image is shown by linking to http://www.genealogy.com/~brigitte/goethe1.htm

#3 ゲーテ37歳の誕生日(8月28日)から間もない。
  see wanted

#4 see WWW "days in Vicenza with W. Goethe"

#5 see (p.169)

#6 後者は無論モーツァルトの作である。

#7 ゲーテの父は大学を出たのちイタリアに旅をした。これは、身分も地位もない若者にとっては途方もないぜいたくだった。
 ゲーテの父方の祖父は婦人服の職人で、パリで修業をつみ、リヨンで働いたのち、フランクフルトに落ちつく。先妻を失い、金持ちの旅館経営者の未亡人を後妻に迎える。その妻とのあいだに生まれたのがゲーテの父。祖父は商いにも腕をふるい、葡萄酒の取引でもっとも成功した。そのおかげで、ゲーテの父も孫のゲーテもぜいたくができたわけである。
 ちなみに、ゲーテの母の実家は声望ある家柄で、代々法律家、祖父はフランクフルトの市長となった。
 なお、ゲーテの父は、故郷に帰って市役所に就職を望むが拒絶され、みかえすため、皇帝から「枢密顧問官」の称号を金で買い取ったが、名ばかりの肩書きだった。 (星野慎一著「ゲーテ」,清水書院,1981,ISBN4-389-41067-9 C1310 による)

#8 see a photo

#9 この有名なゲーテの肖像画は、19世紀の40年代までイタリアにあったが、男爵カール・フォン・ローチルトの手によって買い取られ、彼はそれを1887年にフランクフルトのシュテーデル美術館(#9-1)に寄贈した。(相良註)
#9-1 see WWW "St嚇elsches Kunstinstitut und St嚇tische Galerie"


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