相沢が大学二年になって半年近く経った頃、僕の仕事はすっかり軌道に乗っていた。
とは言っても、雑誌はひとつに絞ったままだし、テレビ出演とかラジオのゲスト依頼が来たところで全部断わっていた。取材関係も断わってたから、いつの間にか僕は謎を秘めた美少年という扱いになっていた。
でも世間というのは広いもので、人気があると言われてても巨大な社会から見ればちっぽけな存在だ。僕のことなんか知らない人なんていっぱいいるし、社会現象起こすほど凄い人気じゃない。あくまでも一部のところで話題の人になってるだけ。
そのせいか、過去を知ってる人間にはまだ発見されてないみたいだった。
でも相変わらずファミレスのバイト先には女の子が集まり、迷惑な反面、売上繁盛にもなっていた。
尾崎さんは将来の方向性を決めようかと思ってるって言いだして、家ではなんか違うことをしてるらしい。教えてくれないけど。
相沢の大学生活も順調で、例の高永神無は最近見かけない。ちょっかいを出して来なくなったみたいだった。まだ油断はできないかもしれないけど。
雑誌モデルの仕事は、慣れてみると結構たのしい。目立つのも注目されるのも苦手だけど、なんかちゃんと生きてる感じがした。
スタッフともすっかり馴染んで、女性スタッフにはデートに誘われたこともしばしば。もちろんうまく断わってるけど、ここでもなんか、僕と尾崎さんの仲がアヤシイと言われた。
否定も肯定もしないから余計、そう言われちゃうのかもしれないけど。
男性スタッフや、他のモデルの人にまで、一緒に食事しようとか遊びに行こうと誘われたけど、やっぱり断わることの方が多い。下心なんてないのかもしれないけど、なんか相沢に悪い気がするから行かない。逆に尾崎さんはいろいろ参加してるみたいだった。
「悟瑠くん」
撮影スタジオで、スタッフのひとりの永浜(ながはま)さんが、慌てた様子で走って来た。
僕はその時、いくつかの写真を撮ったあとで、休憩中だった。
永浜さんは、手に三通の手紙を持っていた。
「こないだ見つけて尾崎くんに見せたとき、きみには教えるなって言われたんだけど、やっぱりねぇ……イタズラや単なる中傷や誹謗にしては詳しいからずっと気になってて。ほっといてたら、また来ちゃったんだよね。それも続けて二通。内容はほとんど一緒で、差出人の名前はどれもないんだ」
僕は戸惑って、とりあえず手紙を見せてもらうことにした。
嫌な予感がする。
不安が胸のあたりでざわめく。
緊張しながら手紙の中身を取り出して、便箋をひろげた。
ふつうの白い便箋だった。縦書きのじゃなくて、横書きタイプの。
数は五枚。びっしりと書き連ねてある。
書きなぐったような雑な字。でも小さくて神経質そうな字体だった。
読んでいるうちに、鼓動が早くなった。
(私は久我悟瑠さんが高校のころ起こした事件のことを知っています)
そんな出だしから始まっていた。
(彼は高校生のころ、ひとりの教師に暴力を働いて退学処分を受けました。そのとき隠されていた真相を、私は知っています。彼はその教師になかば脅迫されて、身体を提供していました。やがて耐え兼ねた彼は、暴力という形で教師に反撃し、真相を誰にも知らせぬまま退学処分を受け入れました)
手紙の内容はまだ続いていた。
(高校を中退せざるを得なくなった彼の、その後のことも私は知っています。両親とうまくいかなくなった彼は、家出をしました。夜に外出するようになり、あやしげな場所に出没するようになりました。ぼんやりとして立っている彼の姿を見かけたときに、私はいったい何をしているのだろうと思いました。ある中年にさしかかった男が彼に声をかけると、ふたりは一緒にその場を離れました。私は後を追ってみました。ふたりの行き先はラブホテルでした。久我悟瑠さんは、身体を売っていたのです。高校時代のころから彼を知っていた私は驚愕しました。まさか彼がそこまで堕ちていたとは。人生、いつ転落が待っているかわからないものです。その彼が、たまたま見かけた雑誌の中でモデルをしていたのを見つけ、私は二重に驚きました。写真の中の彼は、生き生きとしてとても明るい。なぜあれだけの人生を短期間のうちに歩んできたのに、このような輝きを放てるのだろうと不思議に思いました。同時に嫉妬しました。久我悟瑠さんには確かに他の誰にもないような色気があります。私も一時期彼を抱きたいと思っていました。しかしそれが叶わぬまま現在に至ってしまいました。何度彼に羨望の眼差しを送ったことがあったか。しかし彼は私の存在など知りません。いえ、忘れてしまっているでしょう。それほどまでに私と彼との接点は少ない。私は彼の過去が隠されているという事実が我慢なりません。どうか久我悟瑠さんの過去を公表してください。そうすれば彼は皆のアイドルではなく、私だけのものにできます)
手紙はまだ続いていた。
そこには僕に対する気持ちが延々と連ねてある。
気持ちが悪くて寒気がするのと同時に、冷や汗が出た。
なんだこれは?
いったい誰なんだ?
なんで僕のことをこんなに知ってる?
手紙の中に、相沢のことはない。知らないのか、それともわざと書かなかったのか、それはわからない。
「な? 妙な手紙でしょ?」
「尾崎さん……これ、見たんですか?」
「ああ、あんまりな内容だから、きみに見せるかどうか相談しようと思ってね。ほら、尾崎くんてきみにとって一番身近な人だから。他の人にはちょっと見せられない内容だしね」
永浜さんは、僕の顔色に気づいたのか、「大丈夫?」なんて言ってくる。
「すみません。気持ち悪くて」
「そうだよねぇ。こんなの見て平気な人なんていないよな」
尾崎さんはこれを見て、いったいどう思ったんだろう。
「相談した時にね、尾崎くんは見せるなって言ってたんだよ。けどねぇ、二通、三通とつづくと放っておけないから見せちゃったんだけど」
「……はい」
こんな手紙が来ていて、知らないでいる方が怖い。
でも、尾崎さんには見られたくなかった。
信じただろうか。ここに書いてあることを。
……いや、信じないと思う。だから余計、僕は不安になった。
手紙に書いてあることは事実だ。なにひとつ間違ってない。
だけど何故、こんなことを知ってるんだ。
背筋がぞくぞくする。気温が下がったわけじゃないのに鳥肌が立つ。
熱でも出そうだ。それくらい、ショックだった。
「……残りの二通ですけど……」
「ああ、さっきのと同じ人だよ、たぶん。筆跡が一緒だし、内容も似たり寄ったりなんだ」
「差出人不明……ですか」
「そうだね。でもまあ、業界ではよくあることなんだけどね。怪文書とか」
「怪文書?」
「思い込みの激しい人なんかが、相手を自分だけのものにしたい時とか、また、まったく逆に潰したい人間に対して、デタラメな話つくって大勢の人に流す。あるいは、写真週刊誌に流す。プロダクションやテレビ局に送る、などなど。あげればキリがないね。タレントの場合よりも、一般人の方がターゲットにされるとダメージくらいやすい。あるタレントとつきあってるらしいから潰してくれ、とかね。根拠もないのに。タレントの場合なら、嫌いだから潰そうとかね。いい加減なものから、スキャンダルの暴露まで、なんでもありさ」
……でも、これはデタラメなんかじゃない。
この手紙の主は、確かに僕のことを知っている。
誰なんだ……?
帰り際、尾崎さんに会った。
一緒に帰る約束してたわけじゃないのに、尾崎さんは僕を待ってたらしい。
そっか……先に終わってたんだ、撮影。
「送るよ」
尾崎さんの態度にはなんの変化もない。
でも僕は、尾崎さんと一緒にいるのが辛かった。
「ごめんなさい。今日はひとりで帰ります」
ムリヤリ笑顔つくって、なんでもないフリして。
けど、すぐ追っかけてきた尾崎さんに、肩をつかまれた。
「どうしたんだ? なんかあった?」
……なんで気づくんだろう、この人は。
なんでもないフリしたのに。
「なにもないですよ。たまには電車乗って帰るのも気分転換かと思って」
「嘘はいい」
……なんでわかるんだろ。
そんなにポーカーフェイスできてないのかな。
一生懸命隠してんのに。
変だな。
べつに泣きそうになってるわけじゃないし。
結局、断わりきれなくて、尾崎さんの車に乗ることになった。
これまで、そうそういつも尾崎さんに送ってもらってたわけじゃない。尾崎さんはスタッフや他のモデルの人たちと遊びに行っちゃうこともあったし、時間がずれて擦れ違うことすらなかった日もあるし。もうひとつのバイトで一緒に仕事してても、最近は帰る時間がずれることもしばしば。休みの日が違ったりすることも。
「久しぶりだね。こうやってきみを送るのも」
しみじみと尾崎さんが言った。
「一週間ぐらい前に送ってもらった覚えがありますよ、僕の中では」
そう、今回ばかりは久しぶりなんかじゃなかった。
「一週間も前じゃ、久しぶりだよ。最近すれちがいが多かったしね」
僕はなるべく普通に会話しようとした。手紙のことも、忘れようと努力した。
その甲斐あってか、尾崎さんと普通の話だけすることができた。僕が口を開かない限り、尾崎さんも突っ込んできたりしない。わかってたから、僕は「なにも異変はなかった」フリをしたまま、マンションに帰った。
走り去る尾崎さんの車をぼんやりと眺めながら、尾崎さんが手紙のことに触れてこなかったことにホッとしていた。
あれがすべて嘘なら、なにひとつ問題はなかった。けど、すべてが真実であることは、僕が一番よく知っている。だから手紙の話題が出たら、動揺を隠すことができたかどうか怪しい。
誰にも知られたくない。
それが本音だった。
でも相沢は知ってる。僕の過去はほとんど。
手紙のこと、話したほうがいいのかな。
だけど、余計な心配させていいんだろうか。
差出人が誰なのかわからない今じゃ、身動きひとつできない。けど、手紙の主は、これ以上のことはできないと思う。名前も住所も書かないってことは、所在を知られたくないってことだ。だから僕の目の前に現れることはないはずだ。
手紙以上の攻撃なんて、きっとできないはずだ。
「おかえり」
テーブルの上で何かを懸命に書きながら、相沢が言った。
「……ただいま」
相沢の手元を覗き込むと、紙の上に文章が羅列してた。
「なにこれ?」
「提出用レポート。期限が迫ってるんだ」
「ふうん」
大学のことはよくわからない。僕には無縁の世界だ。
「夕食は?」
書きながら相沢が訊いくる。
「スタジオにね、弁当が出て、それ食べてきた」
「そっか」
「僕は終わって帰って来れたけど、まだスタッフとかは残ってるみたい。撮影するのって僕だけじゃないしさ。撮影自体が終わっても、まだ何かやることあるみたいだよ」
「大変な世界だな」
「うん。みんな一生懸命だよ。学校とは全然違う世界だよね」
学校、と言うと、嫌なイメージが湧く。
それは高校時代に嫌なことがあったからだけど。
今日の手紙のこと思い出して、気分が暗くなった。
「ねえ、今日忙しい?」
「うーん……これ書きあげなきゃならないからなぁ」
「ならいいや」
「なにが?」
「たいしたことじゃないんだ」
相沢が初めて顔をあげて僕を見た。
「なに?」
「なんでもないよ」
「気になる。言えよ」
「忙しそうだからいいよ。また今度ね」
「……そうか?」
相沢が再びレポートに取りかかる。それでいい、と僕は思った。
いま抱きしめて欲しいなんて思うのは、ただの甘えだ。
慰めてほしいと言えば、そうしてくれるのはわかってた。
わかってたから、言うのをやめた。
「風呂入ってくる」
そう言い残して、僕はバスルームに向かった。
|