−パックス●ジャパニカーナ−


条約、合意、協定など

■ 1950年 6月17日 アラブ集団安全保障条約(アラブ連盟国家条約)
エジプト・レバノン・シリア・サウジアラビア・イエメン
1951年 2月 2日、イラク参加

 

■ 1955年11月22日 バクダッド条約(機構)
反共軍事同盟です。アメリカ、イギリス、トルコ、イラク、パキスタン、イランが参加し、イラクのバグダッドで結成されたのでこう呼ばれます。

冷戦の萌芽期、中東もその枠組みから逃れられませんでした。エジプトやシリアがソ連よりの態度を示す事に危機感を抱いたアメリカの提唱で結成されたのです。

イラクが革命の後の1959年に脱退すると、本部はトルコに移行されました。以降後もバクダッド条約と呼ばれました。

79年のイラン革命でイラン脱退により、ついに維持不可能となってしまい崩壊しました。

 

■ 1978年3月26日 キャンプ・デービット合意・・・イスラエル・エジプト
イスラエルのベギン首相、エジプトのサダト大統領、アメリカのカーター大統領が会談し、イスラエルと、エジプトとの平和のための合意がおこなわれました。

これは、いつまでもイスラエルと戦争状態を続けても、何も国益にならないと判断したサダト大統領が、他のアラブ諸国には内緒でイスラエルと単独和平をするために、アメリカの仲介で和平のための話し合いを行ないました。

 

■ 1979年3月26日 イスラエル・エジプト平和条約
キャンプデービット合意により、イスラエルは占領していたシナイ半島の返還を行い、1982年4月イスラエルは完全にシナイ半島から撤退します。

 

■ 1989年10月22日 ターイフ合意・・・レバノン
レバノン内戦を終えるため、サウジアラビア、アルジェリアとモロッコの仲介により、レバノンのキリスト教徒とムスリムの調停が図られました。

いろんな宗教がひしめいていたレバノンでは、宗教人口によって大統領、首相などを選出していました。しかし、キリスト教徒が減少したにも関わらず、国勢調査が行われなかったのです。

そのためムスリムが納得せず、レバノンは内戦状態となりました。それを解決するためサウジアラビアのターイフで会議が持たれ、合意に至りました。

 

■ 1991年10月30日 マドリード平和会議
アメリカ・ソ連を議長となり、イスラエルとアラブが和平に向けて話し合いの場を設ける事が出来ました。

この会議の参加国はアメリカとソ連、そしてイスラエル、シリア、レバノン、ヨルダン、チュニジア(PLO)でした。

この時点ではまだ、イスラエルはPLOを承認しておらず、パレスチナアラブ人の代表として、チュニジアがその任にあたりました。しかし、それはPLOの代弁者としての役割でした。

この会議では何一つ決議されませんでしたが、今後はイスラエルと個々のアラブ諸国がそれぞれに交渉することになりました。これを〜・トラックと呼びます。シリアであればシリア・トラックです。一番進んでいないトラックですが・・・。

 

■ 1993年9月13日 オスロ合意・・・パレスチナ暫定自治合意
PLOとイスラエルは中東和平の行き詰まりから、直接交渉しかないと判断し、ノルウェーの仲介で秘密裏に交渉を行いました。

その結果、パレスチナ人による自治が暫定ながら5年間認められました。自治区はガザ、ウエストバンクのエリコでした。

イスラエルとPLOはお互いを認証し、公的な立場で話し合いが出来るようになりました。この陰にはオスロ合意の立役者であるノルウェーのホルスト外相がいました。

この合意に賛成しないパレスチナ・アラブ人もいました。ハマスやイスラミック・ジハードなどはイスラエルと手を組むPLOを裏切り者と呼び、この合意を妨害するためならあらゆる手段をこうじると発表しました。つまり、PLOも容赦しないということです。

 

■ 1994年5月4日 カイロ協定・・・ガザ・エリコ先行自治協定
オスロ合意を実施するにあたり、実質的な打ち合わせが行なわれほぼ合意どおりに事が運ぶように協定が結ばれました。エジプトのカイロで結ばれたのでカイロ協定と呼ばれます。

この協定実施により、イスラエル軍は設定されたパレスチナ自治区から撤収、アラファト議長はチュニジアからガザに帰還し、大歓迎を受けました。とはいえ、ガザの社会基盤がいきなりなくなったので大変な状態が続きました。なんせイスラエルはその社会基盤ごと撤収したのですから・・・。

 

■ 1995年9月28日 オスロ合意U・・・パレスチナ自治拡大合意
パレスチナ自治区を拡大するための合意です。この合意でウエストバンクの各町や村を重要度によりABCのランクに分け、Aエリアの町からはイスラエルが完全撤収します。Bエリアの町は行政はパレスチナに移管するのですが、治安維持は共同です。Cエリアは行政も治安もイスラエルが担当するという事になりました。

この合意でウエストバンクの中にあるヘブロンという町がどうしても、決着がつきませんでした。なんせこの町にはユダヤ教の聖地があるのです。そのためとりあえずこの問題は先送りし、なんとか合意に至った次第です。

 

■ 1995年10月26日 イスラエル・ヨルダン平和条約


写真提供:Israel GPO

マドリード会議からの交渉が実り、エジプトに続いてヨルダンも平和条約に調印します。イスラエルとヨルダンの国境でクリントン大統領立会いのもと調印式が行われたのでした。

写真はクリントン大統領を挟んでラビン首相とフセイン陛下が握手をしている一葉です。

 

■ 1996年2月 イスラエル・トルコ軍事協力協定
協定の内容は秘密なのですが、イスラエルとしてはシリアへの牽制になるトルコとの軍事同盟です。

トルコはアラブの国ではなく比較的、というかかなりイスラエルに友好的であり、協力関係を築くことは重要なことです。しかし、トルコもイスラームの国なので、イスラエルと敵対しているイスラーム国に対して秘密協定ということなのです。

 

■ 1996年8月 イラン・リビア制裁法・・・アメリカ議会
外国企業がイランとリビアの石油、天然ガス開発に対し4000万ドル以上の投資を行なった場合、アメリカは政府調達からの排除およびアメリカ輸出入銀行との取引停止をすると言う強硬な法律です。もちろん日本は反対しています。

 

■ 1997年1月 ヘブロン合意・・・イスラエル・パレスチナ
ヘブロンからのIDFの撤退、ウエストバンク各地域からの撤退およびパレスチナ側への権限の委譲が合意されました。

 

■ 1997年4月29日 化学兵器禁止条約・・・国際
さて、化学兵器はWWT以降、使用禁止となっていたのですが、製造する事は禁止していませんでした。

それは、もちろん報復に使用するためです。アメリカは特に反対意思が強く、化学兵器保有に積極的でした。

しかし、冷戦も終わり大量破壊兵器が無用となると、全面的な化学兵器の禁止条約を進めることになりました。これで、アメリカも製造を止めることになりました。

しかし、イスラエルはもちろんイラク、リビア、シリア、エジプトなどの中東諸国は批准していません。冷戦が終わったからといって、中東問題が終わるわけではないですから・・・。

 

■ 1998年10月15日 ワイ・リバー合意・・・イスラエル・パレスチナ
パレスチナ自治区の更なる拡大を行なうための合意です。現在のB、CエリアをA、Bエリアに格上げするというもの。

合意はしたものの、実際はパレスチナ自治地政府によるテロの取締りなどが行なわれていないということで、IDFも撤収しないということになり、ほとんど合意した話は進みませんでした。ただ、パレスチナ民族憲章の中のイスラエルの破壊という項は合意どおりに削除されました。

 

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