五つのかけ橋
NTTジャーナル 1998年1月

NTTテレマーケティング取締役 菱沼 千明


 
 「菱沼さんはずいぶんといろんなところを歩きますね」と良くいわれる。全くである。事業籍なら珍しくはないかも知れないが、研究籍の者でこれだけ研究所の内外を渡り歩いた者は珍しいだろう。それも、本人の意志に反してである。と、反発したのは最初の頃だけ。今となっては、この経験は私の貴重な財産と思えるようになり、これまでの上司、人事関係者に感謝の気持ちを抱いている。これ本当です。
 というわけで、今回は異文化間の“かけ橋”を幾つか渡ってきた経験を振り返ってみたい。
 
 基礎研究から実用化研究へ
 入社時の配属は、武蔵野電気通信研究所基礎研究部第五研究室。大きな研究成果は出せなかったが、組合分会長の研究に熱中していたわけではないことは断っておきたい。しかし、本格的な研究らしきことをしていたのはこの僅か四年間だけであった。
 初めて“かけ橋”を渡ったのは、基礎研究部から基幹交換研究部に移ったときである。ユニークで一筋縄ではいかない人が多い基礎研究部とは変わって、なんと率直に物事を受け入れてしまう人が多いのだろうというのがその時抱いた率直な感想であった。二年間、ディジタル交換機の実用化を経験し、その後に基礎研究部に戻るはずであった。少なくとも私はそう思っていた。しかし、そうならなかったことが、その後の歩みを決定付けた。
 当時、本格的実用化はまだ先と皆が思っていたディジタル交換機であるが、あれよあれよという間に計画が前倒しになり、四年間の基幹交換研究部在籍期間中、所内実験(TL)から現場試験(FR)、そして商用試験(CT)のすべてを経験することができた。それだけに、毎日夜遅くまでの体力勝負であった。「基礎と交換ではどちらが楽か」という幹部の問いに、生意気にも「質が違うのでどちらとも言えません」と答えた覚えがある。基礎研究におけるスランプ時の苦しみは、実用化のデバグで追われる体力勝負に比するつらさがあったからである。

 研究所と事業部

 基礎と実用化のギャップ以上の“かけ橋”を渡ることになったのが、平成元年のことである。思ってもみなかった東京支社技術部への転勤であった。ネットワークシステム開発センタ通信網技術部に所属していたときのことである。「君はカラオケはやるのか」と言って私を心配してくれた当時の人事担当上司の言葉が忘れられない。現場での人間関係をうまくやれるのだろうかと気遣ってくれたのだろう。しかし、その心配は全く無用であった。
 オリジナリティを重要視する研究所とは異なって、ここでは現場の技術的諸課題を解決することが使命。平成元年の電話局廃止とそれに伴った支店体制への組織変革に呼応して、支社技術部は開発部門を持った東京技術開発センタに衣替え、要員も4倍になった。おかげで人数だけはそろったが、如何に人材を育成し、山積する要望に応えることができるかが課題だった。しかし、案ずるよりも生むがやすし。テーマは豊富。田端の新築ビルに新しくセンタ組織を構え、いち早くUNIXサーバとLANを導入。研究所と結んで世界中と電子メールのやりとりができる環境と整えた。まだ世の中でインターネットが認知される以前の平成元年のことである。結果は三年間で社長表彰五件、支社長表彰十件を得るなど多大な成果を出すことができた。学んだことは「良いテーマと良い環境を与えれば人は育つ」であった。
 その後、一端は研究所に戻ったが、二年ほどして再び東京支社からお呼びがかかった。今度は支店長である。これには驚いた。どうやらまだ事業での働きが足りなかったようだった。

 地域のお客様とのつながり

 同じ地域事業部であっても、支社組織と支店では大きく異なった。支店では、地域のお客様とじかに接したからである。地域とのつきあいの中で一番大切だなと今振り返って思うのは、地域の情報化に対してどれだけNTTが本当に寄与できているかということではないだろうか。商工会議所の役員を命ぜられたことで実感した。
 支店生活も丸三年を終えようとする平成六年五月に、東京商工会議所墨田支部が『サービス・情報産業分科会』を興すことになった。その初代の分科会長に任命されたのである。これには心配事があった。地元の社長さんたちと違って、長いこと責任をもって職をまっとうする約束ができないからである。案の定、七月になって転勤命令。後任への引継ぎを申し出たところ、答えはNO! 商工会議所の人事は俺がやっているのだと言わんばかりであった。幸いにして新転地は30分程先のところ。一年間留年をさせていただき、やったことは、啓蒙活動と実態調査である。啓蒙活動については、前回この稿でご紹介させていただいたとおりである。
 実態調査をして驚いたのは、墨田管内の企業の情報化の取り組みは全国平均にかなり遅れていることだった。電話とFAXしか導入していない企業が65%も占めていたのである。もちろん、一部の企業では社内にLANを構築したり、インターネットによる情報発信を積極的におこなっていたが、それは例外であった。
 この実態に対してNTTは何をできるのか悩んだ。個別の応対などにより少しは情報化支援をして来たが、それもほとのど焼け石に水に近かった。NTTと地域のお客様との間に真の“かけ橋”を作るには、単にNTT商品を売り込むのはなく、親身になって企業の情報化の手助けをしなければならないとつくづく考えさせられた経験であった。

 コンピュータテレフォニィ

 時期は少し戻るが、民営化を直前にした昭和60年の異動も画期的であった。それまで水と油の関係にあったDEXとDIPSを統合して『INSコンピュータ』を作れという命題で、横須賀研究所に交換屋とデータ屋の混成部隊から成る『INSコンピュータ研究企画グループ』が組織化された。私もそのひとりとして派遣された。
 6人のユニークな人間達がまず始めたことは、命に反して「INSコンピュータなんて作るのは辞めようね」である。もちろん、それに代わって成すべきことがあると判断したからである。必要なのはまず通信と情報処理の融合、二つの文化間に“かけ橋”を作ることであった。我々はこれをアーキテクチャの統合ととらえ、その具体化を進めた。思えば、今日流行になっている“コンピュータテレホニィインテグレーション(CTI)”の先駆けであったとも言えるであろう。
 その後、通信と情報処理アーキテクチャを統合するとりくみは舞台を国際の場にまで発展させることになった。アメリカのベルコア、イギリスのBT、そしてNTTが中心になって、TINA(Telecommunication Information Networking Architecture)と呼ばれる国際コンソーシアムが作られ、私がNTTに技術委員に命じられた。ここでの目的は、通信と情報の各々の分野でこれまで別々に培ってきたシステムのアーキテクチャを統一するにはどうしたら良いかの相互理解を得、さらにその統一アーキテクチャに従った実験をしようというものであった。
 TINAのメンバは、各国の通信技術者と情報処理技術者。ここでの議論は、ちょうど通研内でINSコンピュータの議論をしている雰囲気とよく似ていた。いや、それよりももっと顕著に特徴が出ていたと言ってよい。通信屋は強調性と堅固さを重要視するのに対して、情報処理屋は時代を先取りした新しさに価値観を持つといった違いである。この二つの文化間に“かけ橋”を渡すことは容易ではなく、元気でかつ自己主張の強い情報処理屋(コンピュータ屋)が目立った会合の連続であった。そんな中で制御のリアルタイム性の重要性を説く私はしっかり前者にぞくしていたようである。
 『INSコンピュータ研究企画グループ』が解散して既に十年以上が経っているが、コンピュータテレフォニィとのつながりは、子会社に移った現在の仕事とも大いに関係している。一昨年、私はNTTテレマーケティングに出向したが、ここで脚光を浴びている技術はCTI、すなわち、コンピュータテレフォニィインテグレーションである。

 そして子会社へ

 いろいろ劇的な異動人事を経験した私でも、子会社に出向ということを聞かされた時は流石に耳を疑った。支店長に発令されたときも驚いたが、これはその数倍の驚きであった。この“かけ橋”をまさに今渡っている途中である。一歩渡るごとに新たな発見をする毎日であるが、これが何なのかはまだうまく整理できていない。この稿については別の機会に譲ることにしよう。
 この先、どのような“かけ橋”が待っているか分らない。六つ目、七つ目を渡り、これらが虹のかけ橋だったと後々言えるならば、これに勝る幸せはないだろう。